山梨県の印刷 発祥と歴史

前文

 山梨県の印刷の歴史をひもとくとき、我が山梨県印刷工業組合には、素晴しい財産が二つも残されている。
 その1は、昭和38年、山梨県印刷工業組合印刷文化展を開催した折の記念誌「山梨県の印刷」であり、その2は、昭和62年、山梨県印刷工業組合設立30周年記念に上梓された「山梨の印刷史」である。
昭和62年の「山梨の印刷史」には、奈良時代よりの日本の印刷の歴史や、生きた言葉の伝わる先達の方々の座談会、また、山梨ゆかりの文学等がしるされ、当時、全国の各県工組で同様の記念誌が刊行されたが、本誌は特色ある記念誌として、高い評価を得ました。
 それより遡ること24年、戦後の復興をなし、関東甲信越静ブロック大会と印刷文化展を開催するという熱い情熱と、印刷に大きな誇りと強い気概を感じさせられる文章で語られている「山梨県の印刷」に、我が組合の宝として、後世に伝えていかなければとの責任を感じるものです。
 その「山梨県の印刷」の一部を掲載させていただき、山梨の印刷・歴史と沿革といたします。

その成立と歩みについて

1.はじめに

 「印刷あり、文化あり」
 この標語は、第1回印刷文化展の当選作品であるが、印刷が私たちの生活にとっていかに密着不離なものであるかをズバリいい当てたものとして、まことに傑作である。私たちは、きる(衣)くう(食)ねる(住)ことなくして、一日として暮らして行くことができないが、する(刷)ことも同様、絶対不可欠の要件であって、このことなくしては、生きて行くことができない。すなわち、私たちの日常のどの部分を捕えてみても、印刷とかかわりのないものは一つとしてなく、若しも印刷ということが存在しないとすれば、いかに衣食足り、住むことができたとしても、それは文化と隔絶した野蛮生活でしかありえないのである。
 印刷は東洋で発明されたものであって、わが国の法隆寺に現存する「百万塔陀羅尼経」は、世界最古の印刷物として有名であるが、現代の印刷術はそれと出自を異にし、中世のヨーロッパで発明された活版印刷を起源とし、わが国においては、明治3年、長崎の本木昌造がこれを模倣、漢字活字の鋳造に成功を収めた以後のことであった。本県でこれが行われるようになったのは、明治6年、内藤伝右衛門が逸早くこれを導入し、新聞および書籍印刷を創始して以来のことであって、あたかも今年は90周年に相当し、この間、時代の進運とともに発展を重ね、今日の隆盛を迎えるにいたったのである。
 いうまでもなく、印刷は、こどもにもできるガリ版印刷から始まって、高速度輪転機を使う新聞印刷にいたるまで、その範囲はきわめて広く、かつては紙にのみ刷るものと考えられていたのであるが、現代では紙にとどまらず、セロファン・ポリエチレン・ビニール・木材・ガラス・陶磁器・アルミニュ-ム・スチールなど多方面にわたり、文字または絵画などを同時に多数複製することが可能であって、文章は活字またはタイプにより、文字・写真・絵画などは、網版・原色版・多色オフセット版などによって、原稿(オリジナル)そのまま再現することができるのである。また印刷の方式においても、従来の凸版・平版・凹版の三大方式に加えて、孔版技術も大いに発達し、さらに機械的な圧力によって、版につけたインクを印刷材料に移す現行印刷方式から進んで、電子や光・磁力などによる無圧印刷時代に移行しようとしているのである。
 山梨県の印刷は、我が国印刷史上、最古の歴史を誇りうるものであるが、私たちはいたずらに自慢することをやめて、時代とともにますます発展の方向をたどることに努め、地方文化に繚乱の花を咲かせなければならない使命を自覚するものである。その意味において、このたびの第一回山梨印刷文化展を機会として、その基盤であるところの90周年の足跡を概観し、先人の苦闘をしのび、あすへの糧としたいと考える。

2.活版導入以前の印刷

3.jpg 初期の印刷術は、木版によるものであった。これはサクラ・ホウ・カツラ・シナノキなどを適材とし、立ち木の状態で縦断した板目を一定の版の大きさに切り、板の面へじかに書くか、または転写した文字・文様・絵画などを刻み、その不必要な部分を彫りくぼめて凸版(版木)を造り、これに水性の墨または絵具・油性のインクを塗って紙にあて、バレンまたは板を平に圧する器具にかけて刷り上げるものであった。この技術は、中国の唐代の初めごろに発祥し後唐ー後周の時代(930-953)に技術的に確立し、のちに朝鮮を経てわが国に伝わり、特に平安時代の中ごろ以後、文書の複製技術として大いに発達を遂げ、単に文字のみにとどまらず、江戸時代の中ごろ以後、盛んに行なわれた極彩色の浮世絵のごときは、その技術の極致を示す代表的なものであった。
 本県においては、これがいつごろから行なわれたかは明らかではないが、宝永2年(1705)柳沢氏が国主となって以来、しきりに江戸の風を移し、殊に享保9年(1724)幕府直轄領となった以後は、江戸とのはげしい往来を通じて、学術・文化ともに進み、幕末・明治初年へかけて、著述・詩歌・句集・地図(図絵)などの出版がしきりに行なわれ、その版元としては、こんどの印刷文化展へ出陳されている文政十三年(1830)版「掌中甲斐国絵図」の鰍沢村古久屋紋兵衛・甲府魚町村田屋孝太郎・八日町二文字屋藤右衛門・同町藤屋(内藤)伝右衛門(のち温故堂・又新社の前身)などがあった。


1.jpg
 明治5年(1872)7月、甲府八日町の藤屋主人内藤伝右衛門によって、わが国最古の新聞の一つである峡中新聞(のち甲府新聞・甲府日日新聞・山梨日日新聞と改む、現存)が創刊された。当時、既にわが国においても活字の鋳造が行われた。いまだ普及するにいたらず、同年中、東京で創刊された東京新聞・郵便報知新聞も昔ながらの木版印刷にとどまり、わずかに神奈川県下で発行の横浜毎日新聞が活字印刷を採用していたにすぎなかった。
 内藤伝右衛門は、県令土肥実匡の命を受けて新聞を発行するにあたり、彫工(版木師)の払底に困じ果て、上京して四谷甲賀町の御用版木師彫巳之宅にすわり込み、腕ききで評判の養子滝沢宗三郎(子孫が在県)をやっと口説きおとし甲府まで連れ帰ったということであるが、この事実からしても、当時、甲府に目ぼしい彫工はいなかったものと思われる。宗三郎は特に文字を得意とし、その振るうノミは、サクラの板目に吸い込まれるようであったと伝えられる。
 なお、宗三郎は、活版術の導入以後、もっぱら木口木版に転じた。これはツゲを主とし、サクラ、ツバキなどを立ち木の状態で横断し、その木口に文字を彫るものであって、木で作った活字といってよく、木製の認め印をつくると同じ手法であるが、板目と違って、一つの木版が何回でも使えるという利点があり、現在でもなお、活字にない文字がある場合には、この方法による補給が印刷工場で行なわれている。


3.活字初めて甲府に入る

 明治6年(1873)4月、内藤伝右衛門は、峡中新聞を甲府新聞と改題し、新たに東京の彫工直江徳三郎らを迎え、新聞発行の体制を強化すると共に、おりからの学校開設に備えて、本県師範学校の教科書発行所を引き受けるなど、出版の仕事にも触手を延ばしたのであった。しかるに一方、当時としては珍しかった新聞の性格が一般に理解されるにしたがい、居ながらにして内外・遠近のニュースを知ろうとする要求が日に日に高まるのに反し、板目に一字一字を彫る作業は時間がかかりすぎ、どうしても旧聞になりがちであるばかりでなく発行部数にも自ら限界があった。その障害を打開し、かねて使命とする文明開化を推進するためには、新たに発明された活字を採用し、印刷機械を導入するよりほかに道はなかった。そこで、伝右衛門は、この年の2月着任した県令藤村紫郎にもはかって上京、活字を購入し、同時に印刷機械入手のための契約を結んだ。同年7月発行の甲府新聞第19号に「広告 当新聞の儀彫工に乏敷より兎角発行遅延いたし新聞も竟に旧聞となり不都合につき此度活字版を購入し次号より之を用ひ以後毎月八号づつ発行いたし候」とあるのは、活字術導入の準備完了を告げるものであり、ついで同月発行の第20号から全紙面活字による甲府新聞が登場したのであった。本文活字は、ほぼ現行の明(みん)朝体四号大であって、こんにちの新聞活字6.3ポイントからすれば、非常に大き過ぎる感じがするが、ともかくもこの結果、新聞の製作行程が縮まり、発行日を増加するとともに発行部数もまた飛躍的に増大するに至った。近代峡中文化の輝かしいあけぼのは、この明朝活字の初刷りがもたらしたものであったといい得る。
 木版印刷に対して、活字による印刷を活版印刷というが、この印刷術は、15世紀のヨーロッパにおいて発明されたものであった。すなわち、ドイツ人グーテンベルグ(1400ー1468)は、鉛・アンチモン合金を鋳型に造り、その活字を組んで活版を製版し、ブドウ酒の絞り機を利用して加圧式の印刷機をつくり、顔料を油で練ったインクを用いて印刷することに成功し、活版印刷術の基礎を確立したのであった。これは天正18年(1590)ヤソ会派の宣教師によってわが国にも伝えられ、いわゆるキリシタン版を生んだが、豊臣秀吉のキリシタン弾圧によって滅び、あとを断った。 今日、わが国に行われている活版印刷術は、明治3年(1870)3月、長崎の本木昌造が苦心、外国の技術を模倣、くふうして鋳造した活字を元祖とし、同5年(1872)7月、昌造の門人平野富二が神田佐久間町に長崎新塾出張活版製造所を開き、活字ならびに印刷機械の販売を始めてからのことであった。さきに上京した伝右衛門が購入した先は、おそらく同所であったと思われるのであるが、なんの記録も残っていない。

4.初期活版印刷の実際

 内藤伝右衛門は、全国にさいがけて新聞を創刊し、本県における活版印刷の始祖となり、さらに教科書出版に手を染めるなど、そのおもむくところ常に先駆的であった。 江戸時代以来の屋号を藤屋といったが、出版には主として温故堂の名を用い新聞発行にあたっては、峡中会社、知新社などと称し、筑摩県(長野県)に同一の名があって紛らわしいとして、明治6年9月、これを又新社(ゆうしんしゃ)と改めた。これらの一連の社名は、いずれも「書経」を出典とするものであって、文明開化に寄せた伝右衛門の当時の意気をしのぶことができるのあるが、活版術導入並びに教科書出版権取得のために大枚2,000円を投じたのも、その豪腹さを示すものであった。しかも、その金額は、のちに県会議長になった中巨摩郡の豪農三枝七内からの借金であった。
 それはともかく、導入した印刷機械がどのようなものであったか明らかではないが、おそらくは人力を源動力とする手引き式のそれであったことと思われる。長崎新塾出張活版製作所の明治6年6月の記録に「四号活字二十三万、五号活字二十二万、美濃二枚掛手引印刷機一台、四六版八ページ掛ロール機械一台」を販売した(日本印刷年鑑ー1953)とあるが、どうやらこのうちの一台ではなかったかと思われる。あるいはそうでないとしても、当時、同所のほかに印刷機械を供給するところはなかったようである。
 明治7年(1874)2月、甲府新聞第72号から洋紙が登場した。従来の美濃紙に代わったわけであるが、これが本県における洋紙を使用した始まりであった同8月(1875)5月、内藤伝右衛門は旧甲府城内にあった常盤町へ藤村様式建築・洋風二階建ての新社屋を建設、これに移った。広告に「今般旧廓内常盤町三十八番地へ西洋形に新築いたし開店仕候間是迄の通御光臨被下度候 随て甲府新聞又新社も同地へ移転仕候間投書並に新聞御報知等御協力企望候」とあるが、新社屋移転後の景況については、「繁昌は社中藤氏の書籍店なるべし、東京、大阪及び近傍諸県下に輸出する書籍一日に五、六駄を下らず、店頭に輻輳する客は始終七八以上なるも以下に下らず、摺工、製本師、活版等に従事する人々は即百六十余人なり(甲府新聞第百八十二号)」とあり、これによって、出版並びにこれを印刷する規模の大きかったことをうかごうことができる。
 同年中、甲府城内において本県初の内国博覧会が開催されたのであるが、県令の勤めもあって、伝右衛門は、会場内に印刷機を展示するとともに、組版を運んで、新聞印刷ならびに一般印刷の実演を公開した。今日からすれば、文化財としてしか見るほかないであろう旧式機械も、当時の来観者の間では「字を書く機械」として圧倒的な人気を集め、連日、黒山のような人だかりを呈したということであった。

5.「甲斐国志」初版を出した頃

2.jpg 活版印刷術の登場によって、旧来の木版印刷が影をひそめるまでには、なお相当の時間があり、しばらく混合状態がつづいた。たとえば、温故堂の明治7年版「内邦山川志略」は活版だが、同年版「日本地誌略」は木版であり、明治9年版「小学問答」が活版であるのに対して、明治14年版「小学地理書」は木版であった。また「小学掛図」のごときは、色彩を伴うところから木版でなければならなかったのであるが、それにしても、圧巻というべきものは、明治15年(1882)10月発行の和装「甲斐国志」30巻であった。本文は活字を用い、その印刷、用紙の選択、装丁、校正にいたるまで入念に仕上げ、しかも驚歎に値することは、木版を用いた巻末の付録さし絵の出来栄えであって、殊に甲金図楯無鎧(たてなしのよろい)などは、実に見事なものであった。その後、明治30年、同41年、昭和7年と引き続き、この書の出版が行われたが、造本に時代の好みの差こそあれ、いささかの見劣りもないのである。この「甲斐国志」は江戸時代に編まれた歴史地誌体として、新編武蔵風土記などとともに四天王の一といわれる大著述であって、文化11年(1814)全巻130巻を完成、これを幕府に献上して以後、治道の具として、わずかに徽(き)典館、各代官所などに謄写本が備えつけられていたに過ぎず、ほとんど世に行なわれなかったものであるが、伝右衛門がこれを発掘し、初版を世に送ったのであった。これより先、伝右衛門は、又新社の経営権を甲府日日新聞主筆野口英夫に譲ったが、これは、多年にわたる新聞事業と離れて、出版に専念するためであり、従って、「甲斐国志」の出版はその最初で最大の仕事であったわけである。
 一方、又新社々長に新任した野口英夫は、甲府日日新聞を山梨日日新聞と改題し、翌14年1月から発行をつづけるとともに、山梨県布達をはじめ官公庁関係出版物を中心に印刷事業を兼営したのであるが、おりからの県内は、自由民権・国会開設運動・政党組織などをめぐって、政論日に日にかまびすしく、これらを反映して峡中新報をはじめ新聞・雑誌の発行をもくろむもの多く、これとともに新たに印刷所をおこすものが現われ、13年8月、百石町に山岡印刷所(廃)が生まれ、18年11月、青柳詢一郎によって柳町に芳文堂印刷所(現存)が開業、印刷事業をも兼営するなど、印刷界は次第に活発化するにいたった。
 なお、又新社は、明治40年(1907)4月、組織変更によって山梨新聞株式会社印刷部又新社と称し、昭和17年(1942)12月、戦時命令にもとづき、山梨日日新聞と一般印刷業務とを分離、それぞれ独立した。その印刷部門が今日の株式会社又新社であるが、その際、新聞の創業を明治5年7月の創刊時とし、印刷の方は明治6年9月、又新社と称した時をもって起点とすることにした。それとしても、又新社はことし創業90周年を迎える全国最古の社歴であって、文化山梨の大きな誇りである。

6.中央線がもたらした発展

 本県における活版印刷は、新聞紙によって黎明を迎えたわけであるが、当時中央とは山幾重に隔絶された土地であったにもかかわらず、早くから印刷文化が隆盛を極めたことは、江戸時代、天領甲斐として、江戸表との文化交流がはげしかったという伝統にもとづくものというべきであった。
 国会開設を目前にした明治21年(1888)6月、乙黒直方によって、峡中日報印刷所(廃)が生まれ、同27年(1894)5月、原準太郎らによって、魚町に山梨民報社印刷所(廃)が発足、それぞれ新聞発行と印刷事業を兼営したが、同31年(1898)7月、浅川友造によって、柳町に錦袋堂印刷所(のち浅川印刷所・アサヒ印刷と改め、さらに又新社に合併)が開業。同32年9月、斎木逸造らによって、紅梅町に甲斐新聞印刷所(廃)、同34年(1901)4月、桜井栄太郎らによって、山梨時報社印刷所(のちに又新社と合併)などが登場し、日清戦争後における国民士気の高揚、県勢の発展と相まって、印刷文化は著しく向上した。中央線が甲府駅まで開通した明治36年(1903)現在の状況は、次の通りであった。(甲府市統計書その他による)

名称   町名   製造品目  従業員 原動力  経営者
温故堂  常磐町  活版・活字 38  人力    坂本謹四郎
又新社  百石町  新聞・印刷 23  石油発動機 野口英夫
峡中日報 錦町   〃     14  人力    乙黒直方
芳文堂  柳町   活版・石版 30  〃     青柳詢一郎
錦袋堂  柳町   活版    28  〃     浅川友造
山梨民報 魚町   新聞・印刷 21  〃     関善治
山梨時報 相生町  〃     19  〃     桜井栄太郎
錦巧堂  泉町   石版・活版 不明 〃     古川彦次郎
広告社  下連雀町 活版    〃  〃     中山録朗
浅川活版 下連雀町 〃     〃  〃     浅川寅平
上田印刷 鰍沢村  〃     〃  〃     上田周吉
笠井印刷 西島村  〃     〃  〃     笠井到敬

 以上のうち、錦巧堂は、わが国石版の開祖ともいわれる東京・錦巧堂で修行して帰った古川彦次郎が経営し、石版を主として扱い、専売制度実施以前はタバコの包装印刷一手に引き受け、多くの門弟を養成し、後にその人々が独立、甲府における石版全盛時代を招来した。また郡部に印刷所があったことは注目すべきであるが、鰍沢村は中央線開通以前は本県の南門を扼し、甲府につぐ繁栄をうたわれた河港の村だけに需要が多く、江戸時代以来、古久屋紋右衛門が広く出版を営んだ地であり、西島村の場合にはつぎのような事情があった。すなわち、笠井到敬は、今日オフセット印刷機メーカーとして聞こえる浜田精機鉄工の初代社長と戦友だった。軍隊生活中、浜田から紙の生産地であることの利点と、印刷事業の将来性を聞き、その勧めに従って除隊後未経験ながら手引き印刷機を求めて習い、村で生産する紙に印刷して罫(けい)紙をつくり、はじめは近郷の村役場などに納入していたが、次第に販路を広げ、全盛時代にはロール6台を据え、ほとんど全国にわたって移出し、県下でも機械台数では最右翼であった。
 日露戦争後は、世界に伸びる国運の発展、中央線開通を背景に活況を呈し、それとともに工場設備にも整備が行われるにいたり、従来の人力に代わって、電動機使用工場がグッと増加した。従来小規模のところでは足踏み式で機械をまわし、大きな機械使用工場では、二人がかりで綱を交互に引いて動力の代用を勤めたものであって、山岡印刷所が工場の横手を流れる濁川に水車をかけ、機械を動かそうとしたことも昔語りとなった。山梨日日新聞が石川式マリノニー輪転機を導入したのが同42年(1909)6月、東京に頼るほかなかった写真製版が県内で行われるようになったのが同43年5月、同社が写真部を設置して以来のことであった。
 これに反して、さびしい出来事は、かって内藤伝右衛門が創業した老舗・温故堂の名が消えたことであった。しかし、41年3月、常磐町に山梨印刷会社(廃)が誕生し、同年4月辻秀造の山梨毎日新聞印刷所(廃)同年6月、鍛冶町で井上熊三郎の井上印刷所がそれぞれ創業(現存)同年9月、錦袋堂が浅川商店印刷部と改称し翌42年10月、内田忠平が和田平町で内田印刷所(現存・堅近習町)を開業。同年7月、河西熊三郎が河西印刷所を創設し。その後、温故堂と改名した。
 こうして、次第に印刷人口が増大し、同43年6月、甲府市内の業者を一丸とした甲府印刷業組合を結成したころは、組合員28名を数えるにいたった。

7.第一次世界大戦前後の印刷

 大正の終わりころまで、印刷関係の従業員は、業務・工務の所属を問わず、羽織、袴に威儀を正して往来し、中には官員サンかと紛う八の字ヒゲを蓄えた人さえあった。これは活版術導入以来の伝統であって、文字の乏しかった初期には、よほど学殖がなければ、難解な文章や達筆で書き流した原稿を文選することができず、いきおい旧武士や民間知識人が選ばれて工場の人となり、文化の先導者をもって任じた名残であった。のちに立憲民政党支部幹事長となり県政の表裏に活躍した某氏が若いころ、印刷所で働き、また某新聞編集局長となった某氏は、著書10数巻を持ち、本県文化建設に尽くした実父のはからいによって、文選工から社会生活へのスタートを切った。そのほか、印刷所出身で各界に進出、名を成した者の例は少なくない。したがって、印刷所で働くことは、学校の先生とひとしく、社会的にも尊敬をうけたものであった。
 さて、大正時代の印刷界は第一次世界大戦を契機とする新思潮の流入に伴い、にわかに興起した新文化の影響をうけ、とみに活況を呈するにいたった。同4年(1915)2月、常盤町に中村印刷所(廃)が誕生し、更に関東大震災をはさんで、有力な印刷所が続出した。
 大正8年(1920)2月、依田初男が橘町(はじめ紅梅町)に少国民新聞社に印刷所(現在、水門町)を開き、少年少女新聞発行と印刷受注をはじめ、同じころ、蓑輪庄太郎が同じ橘町に山梨労資新聞印刷部(廃)を興し、旬刊新聞発行のかたわら、一般印刷へも手を伸ばした。この両社は、浅川印刷所とともに大冊の単行本を手がけ、大きな実績を残したのであった。上野武国が富士川町に創業した山梨民友、原孫六が橘町で始めた山梨民声の両新聞(ともに廃)が誕生したのも、このころであった。同13年(1924)8月、笠井菊太郎が百石町に峡南堂印刷所(現存・桜町)を開業した。笠井は少年のころ、郷里西島村で叔父笠井到敬の経営する印刷所に入り浸り、その仕事にすっかり魅せられ、「俺の将来はこれで行くのだ」と心に決めたという。そして初志を実現したものであった。深沢浅吉が堅近習町で深沢印刷所(現存)を開いたのも、同じころのことであった。
 大正15年(1926)本県石版印刷の草分けであった錦巧堂が廃業し、20余名に上る門弟が四散したが、多くは甲府市内で独立開業した。下連雀町の矢崎印刷所(現存)佐渡町の丸五・五味印刷所(現存)若松町の小沢印刷所(廃)下連雀町の依田印刷所(廃)上一条町の坂田印刷所(廃)相生町の高橋印刷所(廃)二十人町の遠藤印刷所(廃)などがそれであって、さきに開業した同門の内田印刷所とともに、甲府市内に石版黄金時代を招来した。
 石版印刷術は、ドイツ人ゼネフェルダー(1771~1834)の発明したものであって、その端緒は、石灰石の上へヘット(牛脂)を置いたところ、ヘットのあとが石の面につき、その部分だけが水をはじいた。そこで、これを硝(しょう)酸で腐食すると、ヘットの後が高く残ったところから苦心研究、これを完成し、これによって、従来、高価な木版に頼っていた絵画印刷の悩みを解決し、しかも、今日極めて用途の広いオフセット印刷の前駆となったものである。わが国に伝わって後、いつころからか本県に導入されたかは明らかではないが、錦巧堂あたりが先駆であったようである。
 なお、オフセット印刷は、昭和の初め頃からはじまったが、トップを切ったのは、下連雀町の矢崎印刷所であった。

8.敗戦前後の印刷事情

 昭和初頭の印象的な出来事は、普選法実施がもたらした、華やかな文書戦であった。旧制時代からみると、有権者数がグッとふえ、候補者の宣言書のほか第三者の推薦状には制限がなく、選挙ごとに印刷物が洪水のように流れ、印刷所は大した繁昌であった。
 満州事変に次いで日華戦争が起こり、次第に長期戦の相容を呈し、太平洋戦争が始まったころの印刷事情は、資材の配給統制をめぐって、とみに険しさを加えて行った。昭和16年(1941)6月、日本印刷文化協会設立要項の発表があり、同年10月、教会の発足とともに県単位印刷組合を解消、その支部(支部長野口次郎)となり、用紙・副資材にいたるまできびしい統制下におかれ、同時に時局下重点産業拡充のための企業整備が行なわれるにいたった。すなわち、地方においては県知事が転用工場を選定し、その残余については、工場の生産性・印刷物の種類・需要の地域性、転廃業の可否を判断し、操業または転用工場に選定したもののほかは、すべて、廃業を強行しようとするものであった。
 当時、県内には80工場あったが、これを35工場に縮小し、しかも企業の合同はいっさい認めないという方針であった。転業者に対しては設備を買い上げるほか、一工場あたり8万円の転業資金が交付されたのであるが、結局、峡南堂印刷所ほか44工場がその対象となり、涙とともに愛着深いわが工場を後にし軍需工業の下請け工場その他へ転じて行った。しかし、在置工場もまた、印刷工業再編成計画によって、きびしい統制下に作業しなければならなかった。たとえば、印刷に関する一切の受注行為は、県単位に組織された統制組合が一括して引き受け、特定に会員に命令生産させるという不自由きわまりないものであった。サイパンが陥落した昭和19年(1944)12月、日本印刷産業総合統制組合が誕生したが、戦争末期における統制は、ますます窮屈の度を加えるのみであった。
 しかるに昭和20年(1945)7月、米空軍の大空襲によって、本県は甲府市を中心として甚大な被害をこうむり、被災前の県内機械能力233.55に対して、103.07を戦災によって失い、残存能力は103.48となり、被災率は実に55.6%に及んだ。特に甲府市は全滅状態を呈し、内田印刷所が被害を免れたほか、全業者が焼き出されてしまったのである。こうして明治以降、営々として積み上げたすべては、黒い煙とともに消えうせ、飢餓の襲う焦土の上に、同年8月の終戦を迎えたのであった。
 戦後の印刷復興は、食料をはじめ無いもの尽くしの中で行われた。すなわち、廃墟を掘り起こして焼けただれた機械をとり出し、あるいは非戦災地へ飛んで、機械ならびに副資材を買い集め、リュック一杯のヤミ米ならぬ活字を背に運ぶなど、想像を越えた困難なところから始まったのであるが、他産業に比べてその速度はすばらしく早く、同年10月には数工場が市民の心のカテを送り出したのであった。あれから18年、困苦を越えた人々は、それぞれ新工場の建設、最新式機械設備の導入、技術の革新を招来し、今日みるような活況を築き上げるにいたった。戦災から受けた傷跡は、あまりに苦痛ではあったが、それがかえって、本県印刷の近代化をよぶ契機となったのも、否みようもない事実である。 戦後の業界は統制組合・協同組合などと変遷を経て、昭和30年(1955)8月、日本印刷工業調整組合県支部(支部長笠井菊太郎)を結成、業者間の設備ならびに価格の調整に努めたのであるが、その目的達成とともに34年4月、これを山梨県印刷工業組合(理事長同)に改め、日本印刷工業組合連合会の翼下に入って、現在に及んでいるが、現在組合員は85名、戦災前のそれをしのぎ、その施設内容においては十数倍の能力を備えるにいたった。
 なお、組合が行っている組合員の設備近代資金の融資は、全国的にも比をみない組合活動として、その運営状況に対する他府県からの視察者が相次ぎ、印刷の老舗ともいうべき本県印刷のために気を吐いているのが実情である。

※昭和38年以降の記事につては昭和62年発刊の「山梨の印刷」に詳しく記載。

組合の設立

・昭和32年8月4日
山梨県印刷工業調整組合設立総会
加入者80名 理事長 笠井菊太郎
・昭和33年3月24日
山梨県印刷工業調整組合認可
・  〃  4月5日
山梨県印刷工業調整組合設立登記
・昭和38年11月初旬
関東甲信越静印刷協議会山梨大会開催
山梨県印刷工業組合印刷文化展を開催
会場:湯村昇仙閣、県民会館、甲府市役所駐車場
・昭和49年
山梨印刷若人会設立
・昭和55年5月27日
関東甲信越静印刷協議会山梨大会開催
会場:石和町ホテル甲斐路
・昭和62年8月29日~30日
山梨県印刷工業組合設立30周年記念式典、
印刷機材展
会場:昭和町平安閣
・平成15年7月11日~12日
関東甲信越静印刷協議会山梨大会開催
会場:甲府市湯村「富士屋ホテル」